スラムダンクからみる仲間論

SLAM DUNK 完全版 24 (ジャンプ・コミックスデラックス)

SLAM DUNK 完全版 24 (ジャンプ・コミックスデラックス)

実家で暇つぶしにスラムダンクの山王戦を読み、あまりにも感動したのでちょっとした感想を。


スラムダンクで描かれる試合はどれもスリリングでとんでもなく面白い。しかしベストゲームはどれかと聞かれるならば僕は迷わず山王戦を挙げるだろう。


なぜなら山王戦は、湘北というチームの構成員の1人1人が真理を悟り1人の人間として成熟したことを見て取れる試合だったからだ。まさに大人の階段を登る通過儀礼と言っても過言ではないと思う。
特に、「他人の言うことなんて聞かないで俺は俺流に好きにやるんだ」という自己中キャラの主人公・桜木花道にとっては。



湘北はあの試合で、チーム全員が「仲間無しには自分という存在をコート上で表現できない」という言わば無能の宣言を精神だけではなく身体的実感を伴って自覚する。



だがこの無能の宣言は逆に、「仲間がいるからこそ、自分のわずかな長所を活かすことができる」という有能の宣言でもあるのだ。

この感覚をメンバーは、山王というチームに対してだけではなく個に対しても敵わないというぎりぎりの局面で刹那のうちに悟った。


「各々が各々を頼っている」、つまり「メンバー全員に自分は頼られているんだ」という事を、「自分の役割を全うすれば後は他の仲 間がなんとかしてくれる」という信頼感をメンバー全員が共有している、他者の承認をメンバー全員が共有している。


このことこそが1人1人のパフォーマンスを爆発的に開花させるのだろう。これが「生きている(流動的な)共同体」なんだと思う。



安西監督は言う

桜木君がこのチームにリバウンドとガッツを加えてくれた。

宮城君がスピードと感性を。

三井君がかつては混乱を。ほっほっ…後に知性と、とっておきの飛び道具を。

流川君は爆発力と勝利への意思を。

赤木君と木暮君がずっと支えてきた土台の上に、これだけのものが加わった。

それが湘北だ。


慧眼である。

さすが名将、チームの構成要素をズバリ言い当てた。


この安西監督の言葉のチームにおける個の言及にスポットをあててみると、他者とは代替不可能な自分という点で、少し前に流行った「オリジナルな個性」と似ているようだが、実は全く違うものだ。




「オリジナルな個性」論では自分のポジティブな面だけが強調され、ただただ他者とは違う何者かになれと言われる。

しかしこれだけでは余りにも幼く、子供だ。

自分のウィークポイントに向き合い、自覚して認め、できない部分は仲間に頼る。
そして長所で自分が所属する集団に貢献する。

この所属する共同体での自分の位置付けと、共同体への貢献という視点がなければ、成熟には至らないのだ。




自分に足りないものを提示すること抜きには自分の存在を規定しきれないー優れた漫画には優れた人類学的知慧が詰まっている…。

探し物は何ですか 見つけにくいものですか

パウロコエーリョのアルケミストという小説を10年ぶりに読んだ。
以前はたしか、「まあ、面白いけど…」くらいの感想だったのを覚えているが、今だからこそ響いた一節があったので引用する。

以下、主人公と、彼自身の心との対話






「時々私は不満を言うけれど」と心は言った。

「私は人の心ですからね。人の心とはそうしたものです。人は、自分の一番大切な夢を追求するのがこわいのです。

自分はそれに値しないと感じているか、自分はそれを達成できないと感じているからです。

永遠に去ってゆく恋人や、楽しいはずだったのにそうならなかった時のことや、

見つかったかもしれないのに永久に砂に埋もれた宝物のことなどを考えただけで、人の心はこわくてたまりません。

なぜなら、こうしたことが本当に起こると、非常に傷つくからです。」


「地球上のすべての人にはその人を待っている宝物があります。」

と彼の心は言った。

「私たち人の心は、こうした宝物については、めったに語りません。人はもはや、宝物を探しに行きたがらないからです。

私たちは子供たちにだけ、その宝物のことを話します。しかし不幸なことに、ごくわずかの人しか、彼らのために用意された道―彼らの運命と幸せの道を進もうとしません。

ほとんどの人は、世界を恐ろしい場所だと思っています。そして、そう思うことによって、世界は本当に恐ろしい場所に変わってしまうのです。

ですから、私たち人の心は、ますます小声でささやくようになります。

私たちは決して沈黙することはありませんが、私たちの言葉が聞こえないように望み始めるのです。

自分の心に従わないばかりに、人々が苦しむのを、私たちは見たくないからです。」


「なぜ、人の心は夢を追い続けろと言わないのですか?」

と少年は錬金術師にたずねた。

「それが心を最も苦しませることだからだ。そ して心は苦しみたくないのだ。」


その時から、少年は自分の心を理解した。

関連して、ジョブズのスピーチから。

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.

(もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。)


この難しい時代に、逃げることなく“自分の心”と対話し、未来のあたたかみを信じて宝物を探しに行けるだろうか?

そんなことをつらつらと考えさせられる一冊だった。


宝物は一体何なのか、まるでわからない。

しかし、ONE PIECEでのルフィがワンピースとは何かわからないまま大海に旅立つように、希望であることは確かだ。

希望とは、不確実な未来に飛び出していく原動力なのだろう。




生きることで経験する感動を、成功を、失敗を、選択を、そしてそこで変化して織り成していく思想を、

ときにはボロ糸が紛れようとも何とかして紡いで「宝物を探すストーリー」にしたいと強く願う。

ブログを始めてみたワケ

本当は初投稿が今回のような内容の方が良かったのだろうけど、初投稿はどうしても自分の中で旬な話題のうちに書きたい内容だったので御容赦を。



最近巷では、「情報発信することでセルフブランディングになるよ」とか言われているが、そんなのは「できたらラッキー」ぐらいのあくまでも副次的な要素に過ぎないと考えているし、何より自分にブランディングするような強みがあるなんて思っていない。


では、なぜブログを始めたのか?


端的に言うと「自分の思考を整理する」ということなのだが、詳しく説明するにはツイッターの話をしなければならない。



僕はツイッターを昨年の12月から始めた。最初の三カ月は友達中心にフォローしている人のツイートを見るだけで自分から関わるような使い方はせず、ほぼ情報を得るためのツールだった。震災の時にはそれが随分役立ったわけで、そういう使い方はありだと思う。
しかしそれでは何だか物足りなくなってきて、TL上に気になるツイートがあるとリプライを送ってみたりして交流を図ってみた。そうしたらリプライが来て、それにまたリプライを返す。


それが面白くなってくると今度は自分から意見を発信してみた。するとフォロワーの方からリプライが来て、また返す。ツイッターでのやりとりの中で、意見や考えがちょっとずつ醸成されていくのを感じたのだ。

味をしめた僕は、頻繁にというわけではないが、自分の感じたことはとりあえずツイートしてみることにした。本や漫画の感想なり、ふと湧いて出たアイデアなり。分野にとらわれずTLという海に流し込む。
自分では大したことないと思っていたツイートに対して思わぬ反応があったりして驚くこともある。


考えをツイートすることが定着してくると、ある時こうした「情報フロー型のツイッターに意見を垂れ流しにするだけでいいのか」という疑問が湧いた。
ツイッターは性質上、考えを140字で纏めるということが要求される。そしてTLというUIからも、明らかに`流れる`というイメージだ。140字ですくいきれない部分の方が遥かに多いし、すくえた部分ですらも流れてしまう。


「…それってもったいないんじゃない?」と。


そこで僕は、ツイッターに流したメッセージはアイデアの一時的なメモ(リプライがあれば、さっき書いたように考えが深化して尚良し)と考えた。
そのメモを元に時間がある時に少し考えて書き起こし、ブログ記事と言う形にして「フローをストックに」することにした。
何となくツイッターで流した意見も、そうして多少の時間をかけてしっかりと考えてみるとそれまで見えていなかった部分が明らかになる。

「ああ、あのツイートってこういうことだったのね」というように、自分の真意が初めてわかる。この発見はなかなか感動モノだ。


TLを見ていて、ツイッター上にはフローのままではもったいない意見が多すぎると思う。是非とも字数制限がない場で色々な人の考えを見てみたい。


何だかとりとめのない文になってしまったが、「ツイッターやっている人にはブログは結構相性いいんじゃない?」という話。特に大学生は時間があるから、自分の思考に向き合うというのは是非するべきだと思う。




因みにブログタイトルについて。
「今日も世界は広がっていく。」ーこれは、大好きなマンガ「よつばと!」の6巻の帯から。ブログを書くことを通して、内的世界の広がりを持てたらなぁと思ってこのタイトルにした。


いやホントにこのエントリはとりとめのない文になっちゃったな…。

弱さを受け入れるってつまりは愛

最近様々な出来事を聞くにつけて、二年ほど前の村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵」の一節を思い出す。





しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。


[中略]



私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
 
 
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。




…ここで言う「システム」とは、イスラエルのの軍事行動に象徴されるような「権力」を連想してしまうが、僕はもっと広い範囲を示す言葉だと考えている。「権力」や「制度」のような暴力装置としてのものだけではない、もっと個人個人に根差したもののように思えたのだ。3.11の大震災を機にして。



上手く表現できないが、「システム」とは「僕たちを支配する概念」のようなものではないだろうか。自分が他者を非難・恫喝するときの語法、その語法を用いるときの無自覚な自分の意識だ。
これは3.11後、特に前景化してきたように感じる。


ツイッターで跳梁跋扈した‘自粛‘の風潮、そしてその風潮に反対して自粛を自粛しようとするITジャーナリスト・佐々木俊尚さんに対するツイッターでの容赦ない攻撃。
僕は佐々木さんをフォローしていて、当時匿名の大勢の人達に、可哀そうなほどバッシングを受け、あの冷静で剛胆な佐々木さんが日に日に弱っていく様子を見ていた。
このような例は他にいくつもあったのだろう。


あれはまさに「時に自己増殖し、私たちを殺し、私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始める」という表現がぴったりな現象だった。「システム」に簒奪されている卵もまた、「システム」になって他の卵を壊しうるという厄介な入れ子構造になっているのである。


このように壁と卵の境界が複雑に重なり合う世界において、村上春樹の言う「私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じる」とは一体どういうことだろう?
いつでも「システム」の側に転化してしまう「卵」を信じろと?
 

いや、たぶんそうなのだ。



「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。


村上春樹は常に、`弱い`卵の側に立つと言う。この`弱さ`とは、いつでも「システム」の側にまわってしまう`人間の本来的な弱さ`ということではないか。


人間は弱い。弱いが故にしばしば大きな間違いを犯し、他者を傷つける。しかし、その弱さを覚悟した上でそれでも付き合い、魂を互いに交わらせるということ無しには温かみを信じることなどできない、と言っているように思えた。