書評ではないのだけれど

会社が放り出したい人・1億積んでもほしい人

会社が放り出したい人・1億積んでもほしい人

本書は、成功するビジネスパーソンには、どのような資質が必要とされているかを明示した本である。コンサルタントとして一世を風靡した堀紘一。彼の経験に裏付けされた、魅力的なビジネスパーソンの条件には十二分の説得感がある。

さて、本書でとりあげられていた話題のうち、興味をそそられた点を二つ


1.日本の民主主義には「血」が足りない

歴史をさかのぼれば、民主主義とはまさに「血の革命」だったといえる。たとえば、フランス革命はマリーアントワネットがギロチンにかけられたことで有名だが、彼女の死をもって市民が民主主義を獲得したわけではなく、十年以上にわたって、それこそ何万人という庶民が官憲の手で犬畜生のごとく殺されているし、革命派のなかでも血で血を洗う抗争が絶えなかったのである。
(中略)日本のために死んでいった英霊や戦争に巻き込まれて死んだ無辜の民には申し訳ないが、民主主義を勝ち取るために死んだ人間は一人としていない。日本にとっての民主主義とは、戦争に負けたことにより、やってきたアメリカ占領軍によって、強制的に押し付けられたもにの過ぎないのだ。(中略)つまり日本人は、民主主義について真剣に考えたこともなく、その価値もさほどわかっていないのである。

ちょっとばかしナイーブな主張だが、含蓄もある。
すなわち、「日本人の民主主義に対する意識は低い」という問題に対して、その原因を現在の政治構造やメディアに求めるのではなく、日本人という系譜に求める点である。

ただ、個人的には戦争で三百万人の人達が無くなってこのような形の民主主義ができあがったのは事実なわけで、その血があって現在のシステムがあるのだということにリアリティを感じているかどうか、が肝要だと思うが。

このように、現在の日本が抱える問題の根本原因を、系譜や歴史に求める考え方は、司馬遼太郎の「この国のかたち」などにもみられるが、こういった考え方は、真偽を科学的に確かめ難いと言える。
だが、何故か”しっくり”きてしまうから不思議だ。

ちなみに、この話題は、本書のテーマとまったく関係がなさそうではある。だが本書では、日本の民主主義には血が通っていないから、双対する資本主義も健全でなく、「戦後サラリーマン社会」という特異な環境を作り出してしまった。というような文脈が続いている。


2.日系企業にはサラリーマンとビジネスパーソンがいる

日系企業には、仕事に受動的な人=サラリーマンと、仕事に能動的な人=ビジネスパーソンがいるという話。ここまではよく聞く話で、本書もこの話に深入りしているわけではない。

僕の考えをつけたすならば、もう一種類の人がいると思う。
それを便宜的にエリート、と呼ぶとしよう。ビジネスパーソンとは、仕事に対して能動的であり、日々の自分の仕事を効率的にこなしていくことに注力する人間である。では、エリートとはどんな人間なのか?

おそらく、仕事に対する注力という意味ではビジネスパーソンとエリートでたいして差はない。
だが、ビジネスパーソンが仕事に注力する目的が「自分の商品価値を最大化すること」であるのに対し、エリートが仕事に注力する目的は、「自分の所属する組織の価値を最大化すること」である。

この考え方を用いるならば、本書の題名にもあるような「一億円playrになってやる!」というマインドセットは、ビジネスパーソンのものである。それに対してエリートは、”誰にも言われていない”のに、”直接自分の利益にならない”のに、それなのに「組織の価値を最大化」しようとするのだ。



さて、ここからは完全に本書を離れ、話を漂流させてしまいたい。

エリートの性質である「強制されないのに、自分の所属組織に対して当事者意識を持つこと」は、そのまま現在の日本人に足りないもの、と言い換えることがでないだろうか。足りないという表現が、ヴィヴィッドすぎるならば、日本人が求めるべき資質である、と言い直しても良いかもしれない。


海外の選挙ニュースや、innovativeな発明の話を聞くにつけ、彼らの社会に対する当事者意識、すなわち、「自分自身が、自分の手で、社会の存在価値を向上させるのだ」という強い当事者意識を感じる。
もちろん日本人にも、エリートはいる。だが、知の先取りによる差分が利潤の源泉となる、このポスト産業資本主義の時代において、エリートという存在がより多く必要とされるのは、疑う余地がない。

「血を知らない民主主義」の国、日本。

僕ら若輩者は、この国に当事者意識を持たなきゃならない。