「明治」という国家

「明治」という国家(愛蔵版)

「明治」という国家(愛蔵版)

ちょっと申し上げておかなければなりませんが、私がこれからお話しすることは、明治の風俗ではなく、明治の政治の細かいことではなく、明治の文学でもなく、つまりそういう専門的な、あるいは各論といったようなことではないんです。

「明治国家」のシンというべきものです。作家の話とは、どうも具体的です。以下、色んな具体例を挙げますが、それに決していちいち即したような、それにひきずられるようなことはなさいませんように。

それら断片のむれから、ひとつひとつ明治国家のシンはなにかということを想像して下されば幸いなのです。

私が明治という時代に興味を覚えたのは、なんといっても『坊ちゃん』の時代を読んでからだった。この漫画は、とてつもなく、”明治時代の人間”を描いていて、その結果として、とてつもなく”明治”を描いている漫画である。



そして、司馬遼太郎も、まったく同じ方法で、私たちに”明治”を語ろうとしている。
彼が明治という時代を”時代”ではなく”国家”として語ったのは妙に納得だった。


戦争を体験し、国というものを大切にしない愚かな高官たちに幻滅した彼がある種の夢を描いた時代。


つまりは、”人間”と”国家”とが同じベクトルを向いていた時代を描いているのだ。
その”人間”と”国家”との関係性は、私たちが普段使うような”国民”と”国家”との関係性とは、おそらく全く違うものだろう。


まだ”国”の血液として”人間”が流れ、”国”が傷つけば”人間”が失われるような時代である。
国家のことなんかどうでもよい国民と、国民のことなんかどうでもよい国家と。
そんなような関係になってしまった今とは全く違うのだ。


別にそうなってしまったのが悪いという訳ではない。
ただ単に、明治がそういう時代だったのだし、現在がこういう時代であるのだ。


もっと簡単に言うならば、日本という国がベンチャーだった頃の話だということだ。
いつ潰れるかわからないけど、夢に満ち溢れていたのだと思う。
もちろん、現実にはそんなロマンチックな話なわけではなくて、たくさんの犠牲の上に成り立った”夢”だったろうが。