『坊ちゃん』の時代

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

夏目漱石を取り巻く人々を描いた群像「漫画」。

そう。漫画である。



夏目漱石が生きた明治時代というと、日本史の中でも指折りの「男のロマン」時代ではなかったかと思う。

漫画からは、和魂洋才を本気で成し遂げようとしていた明治という若人の持つ熱気がムンムンと伝わってくる。



三島由紀夫は戦時中、自分は国のために死ぬと本気で信じていたそうだ。そして玉音放送を聴いた夏の日から、自分にはもはや「英雄的」な死はないと悟り、その事実こそが彼にとっては真に不幸であると考えていた。そして、あの割腹自殺。



村上龍は「希望の国エクソダス」のなかで、ある中学生をして「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。ただ、希望だけがない。」と言わしめている。




僕には、漫画の中に描かれているムンムンは、彼らのいう「英雄」や「希望」とつながっている気がする。それは時代が要求するもので、今のご時勢には決して無いものなんだと…。
そんなムンムンが闊歩していた時代の只中で、夏目漱石は必死で考える。どう生きるのが一番得心の行く生き方なのか?そう一生懸命に考えているのだ。

この漫画は悩む漱石の描写がオモシロい。とにかく優柔不断。国の行き先を案じた次の瞬間には、今月の生活費のやりくりを苦心する。血気溢れる若者を家にあげてるのに、そいつの話をろくに聞いちゃいない。


そう、解説で高橋源一郎がいうように、漱石はまさしくこの漫画の中で生きているのだ。悩みに悩んで平凡たる一人間としての確かな生を送っているのだ。


彼の生き様は明治という時代の持つムンムンの中で異彩を放っている。誰もが前も後ろも分からないまま兎にも角にも突っ走っている、そんなムンムンの中で、国の行く末から自分の進路までをも立ち止まって等身大に悩んでしまう夏目漱石。その姿に、現代人のジレンマ、つまり今を生きる人間たちがもつジレンマが見え隠れしている。



三島や、村上龍の言葉を簡単に言い換えてしまえば、今という時代はみんなが何も考えずに走り出すことが出来るほどムンムンしていない、ということだと思う。多くの人は、走り出す前に立ち止まって考えることを求められる。考えすぎたり、考えることから逃げちゃって、走り出すチャンスを逃しちゃう人がニートと呼ばれる人なのかな、と最近思う。
確かにこの時代にはムンムンさが足りないし、逆に閉塞感で溢れている。でも、だからといって時代を理由にしてしまっては、なんのために生まれてきたのか分からなくなってしまうだろう。


結局、僕も漱石も全国のニートも、将来について悩み、時代について悩んでしまうみたいだ。自分の時代に英雄がいようとも、希望が満ちていようとも、悩む人は悩む。そう信じたって、良い気がする。僕も漱石ニート紙一重ってことで。